ツイッター慣れ

ここ最近長い文章を書く事を忘れた僕。

まるで俳句のように140文字に落とし込む作業。それが時に快感。

しかし時々このようにダラダラと書く文章も必要。


他人

一番近くにいる他人。

理解しあえる可能性がほぼゼロの関係。

しかし

元々理解できる相手なんて求めてはいない。

今だれかと理解し合えてると感じているのであればそれは一時の幻想。

突き詰めれば突き詰める程理解しあえないものが出てくる。

大切なのは理解ではなく共存。 そこに存在している事。 共に生きている事。

それは小学校の昇降口にあった大きなケヤキの木の様なもの。

そこにいつもあった。 

入学した時も、運動会の時も、水泳大会の時も。

緑の葉っぱを付ける時、落葉の時、すっかり枯れ木の様になる時、芽吹く時。

ただ単にそこにあったケヤキの木。

「愛」ってそんなもんじゃないかと思う。

人が他人に何らかの影響を与えたり、助けたり出来るというのは大きな思い上がり。

大きな喜びを与える時もあるかもしれない、

しかしそれを忘れさせるほどの苦しみを与える事だってある。 


「愛」って何かをする事ではない。 何かの行動をする事ではない。 

「愛」ってそこにいる事だ。


思い出がつもれば積もるほど良い思い出と悪い思い出が積み重なり、

それは飽和状態になる。 プラスとマイナスが綱引きをして 

なにもなかった事と同じ状態になる。

ただそこに立っているケヤキの木の様に なにもしていない存在になる。


でも僕はその小学校の時、そのケヤキに愛されていたと思う。

なにも世界を救う様な愛ではない。 人の命を救う様な愛ではない。

何気ない愛。

おはようという時に友人の後ろにみえるケヤキ、 

放課後に夕焼けが枝の間から滲む様に見えたケヤキ。


人間なんて結局そんなもんだ。 それ以上でもそれ以下でもない。


おごる事なく 卑下する事なく

ただひたすらそこに存在する。

それだけで「愛」なんだと

僕は言いたい。 

差別社会

アメリカはトランプフィーバー。

人種差別問題がまた再燃。

さて翻って日本はどうかという考察。


端的に言って日本は「年齢差別社会」。


下働きとカテゴリーされる仕事をするのは若い衆。

このシステムは現在崩壊中とのこと。

堀江氏の台頭からよくうたわれる実力主義。


一つの考察として、あえて発言。

「年齢差別社会」はある程度理にかなっている社会。


仕事をする上で決して無視できない所、それは下働きセクション。


レストランで言えば皿洗いや掃除にあたる部署。 

シェフやウェイターなど人の目につく所ではない所。


アメリカではそこの担当者はいつだってメキシカン。

当たり前のようにメキシカン。


構造的にメキシカン。  それに対して誰も疑問の目を向けたりはしない。


果たしてそんなアメリカ社会の方が良いのか?


「若い」という理由でこき使われる。 しかしいずれは「若くない」という理由で上に上がる。

順繰り。


「人種」が理由でこき使われる。 いずれは。。。 変わらないまま。

(もちろん本人の努力次第で登っていく人もいるのがアメリカ。 何もせず時間の経過だけでどうにかなるかという点での比較)


どちらが理想の社会なのか。


もちろん理想の社会とは、下働きの存在しない世界。 


裏側のない、全方向をみんなに見せられる世界。


そんな世界が、そんな仕事や会社が存在するだろうか?

日本、というより儒教思想。 ある程度理にかなっていると考えられるのはもはや少数派なのか。


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