一人芝居

数ヶ月前の出来事。

キーナファーガソンさんという女優さんの一人芝居に劇伴として参加。


リハーサル中はあまり気乗りのしない仕事だったという件。


理由としては 一人芝居と言いながら誰を演じる訳でもなく演じるのは自分。


自分自身の半生を1時間半の一人芝居にした作品。


数奇な人生を送った人物の半生ならばまだ理解可能。


しかしながら彼女の芝居で描かれる実体験を箇条書きにしてみると


ー 子供時代可愛かった故にやっかみでクラスメートからのイジメに遭遇
ー 女優を目指して田舎からロサンゼルスへ引っ越し
ー オーディションに中々受からない現実
ー 大好きだったお爺ちゃんの死
ー 妊娠中絶の経験



さして芝居にする程の実体験なのか? との疑問。 


これで公演が成功するのか? 人は感動するのか? 


そんな疑問を腹に抱えた中の一つの仕事としての割り切り。 




迎えた公演初日。


キーナファーガソン本気。


不覚にも演奏中に涙。


思いも寄らず人生の大事な教訓を与えてくれたこの体験。


つまり


「ストーリーが大事なのではない、そのストーリーをどう語るのかが大事なのだ」という事。


特に昨今の情報化社会。


いにしえの問わず語りから現代の携帯小説まで全てがアーカイブ化。


完全にオリジナルなストーリーを思いつくのはほぼ不可能。


そこで諦めるのか? いやそれは間違い。


キーナファーガソンの半生ははっきり言って凡庸。 


ロサンゼルスで女優を目指す女の子の話としてはこれでもかと言う程ありふれた話。



でも彼女は「私の人生なんて普通にありふれた話。誰も興味持たないと思う」等と思わず、


自信をもって1時間半の一人芝居という作品に昇華。


どんなつまらない人生でも どんな普通な人生でも 


そこに起承転結と物語の山と谷をつけ


ちゃんとした発声と演技力で表現すれば


人を涙させる作品に変化。


残念ながらこの一人芝居 大ヒットにはならず閉幕。


しかし


名作にならないから、大ヒットにならないからといって作品を作らない人より



駄作でも失敗でもなんでもいいから一つの作品をまとめあげた人の方が凄さ100倍。



両親は離婚もせず今も仲良し。


盗んだバイクで走り出した経験ゼロ。

大怪我、大病 その他死にそうになった経験ゼロ。 


10対1の喧嘩で勝ったぜ的な話もゼロ。


世界的なコンクールで優勝したような話もゼロ。


至って普通なギタリスト。 


そんな自分の人生も語り方をしっかり整えれば


一つの作品に成り得るんだという事。


表現活動に大事なのは


「何を表現するか」より「それをどう表現するか」の方が大切だということ。


思いがけず色んな事を学んでしまった仕事。





エロと可能性


こちとら40代健康男子。


そりゃぁあるさ。 エロっちいことを考える時。


そんな時ふと頭をよぎる哲学的見地。


「エロとは可能性である」論。 まぁまぁちょっと聞いて行っておくれやす的な。



何故下着の女性のグラビア方がビキニの女性のグラビアよりエロいのか。 


その秘密は下着のゴムの緩さ。 生地の薄さ。 


しかしよく考えれば写真の中の水着や下着、ゴムの緩さは不明。薄さも不明。 


見えている肌の面積もほぼ同等。


しかし頭の中にある「下着は薄いものだ」という知識が補完。
 

なんらかの負荷がかかった時に脱げてしまう「可能性」の高さ。軍配は圧倒的に下着。


よってエロさ倍増。



これはキャミソールの肩紐が片方落ちている時の状況も同じ。


数ミリ幅の肩紐によって隠される肌の面積の違いなど全く無関係。


肩紐が落ちていようが胸はしっかり隠れた状態。


相違点?  その答えはズバリ「可能性。」



今、下方向の負荷がキャミソールにかかった時 いや、自分が下方向の負荷をキャミソールにかけた時

下にずり落ちていく「可能性」があるのはしっかりと肩紐が両方してある時としてない時と

どちらなのかという点。 

その見える「可能性」が高い方にエロさを感じるという不思議。

「見えているか見えていないか」という事実とエロさは無関係。

「見える可能性がある」事に存在するエロ。


そう エロとは やる気。 


人は可能性が全くなさそうなものには興味を持ちにくい生き物。




できない思っていた絶望の時。
「これは行けるかもしれない!」と一筋の突破口が見えた時の喜び。


「イエス!可能性!!」




絶対勝てないと思っていた相手に何とか一点先取。
「よし!このまま守り切れば初勝利ができるかもしれない。」と色めき立つ心。


「イエス!可能性!!!」



石鹸の泡で隠してある胸。
「ちょっと水を一滴かけるだけで全部見えるぞ!」とはやる気持ち。


「オー イエス!可能性!!!!」







 

 一体僕は何を書いてるんだろうという気づき。



退役軍人との口論

若かったあの頃。

何も怖くはなかった。。 by 神田川。  などと。。



リトル東京のはずれに当時存在していた日本人経営のジャズバー。 

ジャズが聞けること 日本人のバーテンのお兄さんやお姉さんと話せること 新しい友達が作れること 

そこに行く理由は様々。 

深夜2時に閉店というカリフォルニアの法律をこっそり無視。 グラスを湯のみに変え入り口は施錠。

門番のガードマンに話しかけてこっそり入店。扉を開ければそこは明け方まで盛り上がる秘密の社交場。

「24」で大ブレイク中だったキーファーサザーランド氏も今は無きその店の常連客。



そのバーにて。 ある夜 となりに座った常連のアメリカ人の老紳士。 日本びいき。 何気なく始まる会話。


音楽に関する話題、ロサンゼルスという街の話、日本文化の話 そしてその老紳士の経歴の話。 


老紳士は先の大戦を知るVeteran(退役軍人) それ故 終戦後駐留していた沖縄やその他の地域で生活する機会があり それが日本文化に触れ合うきっかけであったとの事。彼がその店の常連になった理由はジャズバーに似つかわしくない人気メニュー「ゴーヤチャンプルー。」


楽しい会話に進む酒。 しかし話題は何故か先の大戦の意義、そして原爆投下の是非という話題へ。


和やかな雰囲気は一転。

30代前半の血気盛んな日本人ギタリストと白人の老紳士はバーのカウンターで掴みかからんばかりの舌戦を開始。


小生は大学在学中に社会学の授業で原爆について20枚程のレポートを作成。


当時から現在まで 小生の原爆に対する考え方はただ一つ。


「原爆投下は戦争問題として語られるべきではなく、人種問題として語られるべき事。」


老紳士はが持ち出すのはお決まりの論。「原爆が戦争を早く終結させた、そうでなければもっと多くの犠牲者が出ていた。」「日本が真珠湾をしかけたのが最初だ。」


それに対するは若造は「相手がドイツでもやっていたのか?」「長崎と広島で種類が違う爆弾が落とされた理由は?」 と応戦。

続けざまに

「アメリカは当時日本人の事を差別的に見ていたからあんな大々的な人体実験ができたのではないか。アメリカが原爆投下に関して謝罪をしないのは別に構わない。自分にとって腹立たしいのはそうやってアメリカが当時日本人を差別的に見ていたのだという明白な事実を認めたがらない事だ。」

これに老紳士は激昂。急に蘇る軍人魂。

「我が国アメリカは崇高な理念を掲げる国で他国や他人種を差別する等ありえない。 原爆投下は戦術上どうしても必要な手段だったのだ」と。





ここで私はふと気づく。



私が言っている事は本で得た知識。


彼が言っている事は実体験と過去の記憶や思い出に基づく記憶。



仮に私の言っている論が正しかったと仮定。


すると彼は自分の貴重な20代を「差別主義の国」に捧げたという事に。 


激しい訓練、実戦の地獄、殺めた命 失った友。 そんな彼を唯一支えているのは自分がやってきた事は正しかったんだという思い。 


自分が青春を捧げたアメリカという国は悪い国じゃない!素晴らしい国なんだ!と思いたい気持ち。

それは兎にも角にも自分の存在意義。

国ではなく 戦争ではなく 理念ではなく 単に自分の為。

ただその老紳士が朝気持ち良く目覚め、愛する人に清々しくおはようと言う為に 必要な事。


それがアメリカを愛し、アメリカは絶対間違っていないと信じる事


だから私の論等を絶対に認める訳にはいかない。


私に彼の人生を全否定する権利など皆無。




理論を振りかざすもよし。 勉強するもよし。 議論もデモも素晴らしい。



しかし戦争というものは端的に言えば実際に戦う兵士が一番関わるもの。


賛成であれ反対であれ実際に関わる軍人達の存在を考えずに議論をするのには大きな違和感。


「大学の授業の一コマ」と「一人の男の人生そのもの」 

仮に一コマの方が正しかったとしてそれが何になると言うのか。


この口論がどう終わったのかは残念ながら失念。


程なくして隠れ家的な商売がロサンゼルス市に咎められこのバーは閉店。


あの老紳士は今何処。。 お元気であることを願うのみ。





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