ギタリストKay-Taの体言止め
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8月
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戦争と個人主義
というタイトルで文章を書こうと思い向かったキーボード。
不謹慎にならないよう選ぶ言葉と文章。
現在夜中1時。
結局下書きフォルダーへ移行。
近日公開。
あらすじ。
個人主義の国での「戦争」と全体主義的な国での「戦争」は全くの別物。
7月
29
何故に体言止め?
ネットというものの難しさの考察。
言葉を投げかける時、文章を書くときには相手というものが想定されている事が通常。
しかし際限のない電脳空間に言葉を放つ時にふと思う。 はて誰に向かって書いているのかと。
自分の人格、そして相手との関係性を表す部分、それは語尾。
それは語尾なんだよね。 馴れ馴れしい親しい友達。
それは語尾である。 固い人格 そして距離感のある間柄。
それは語尾だぜ。 男っぽくかっこつけた人格 そしてそれを見せたいと思っている相手。
それは語尾なの。 おネェ的人格。 そしてそれを受け入れてくれる間柄。
枚挙に暇無し。
相手が誰であるのかも解らずに自分で勝手に相手との距離を押し付ける事が得策なのか否か。
少なくともそれが僕のスタイルでないことは確か。
誰に届いているのか分からない文章は語尾を付けずに尻切れとんぼ。
理解していただけるかは別にして 一応深く考えた上での僕なりのネット上の礼儀。
それが体言止め。
そしてどうだろう、体言止めが並ぶ事で生まれる見事なまでのスカスカ感。
文章に生まれる余韻と隙間風。
好物。
7月
28
またブログに帰還
いつからか飲まれに飲まれたSNSの波。 思い返せばもう10年以上。
心によぎる想いは短めの言葉と写真に微塵切りにされ、他人の幾千の想いと同等に列挙。
「あぁ俺ってやっぱり特別な存在なんかじゃないんだな」と心の声。 解っていたとしても目の当たりにしたくはない真実。
次第に薄れていく想いをつらつらと書き連ねていく欲求。
つらつらと書く事は「なう」に起こっている事を単に提示する行為とは正反対。書けば書くほど「なう」では無くなっていくという事実。
そしてiPhone, Android の台頭。 今そこで起こっている事を即座に伝える即時性に優れたものそれがモバイル。 モバイルの画面のサイズと親指のタイピングではどうしても沸き上がらない長文を書きたいという欲求。
僕が長文を書かなくなったのは恐らくこういう理由もあったのではないかと推測。
しかし、
数ヶ月前に迎えた不惑の年、そして1ヶ月半前にやってきた我が家の新メンバーの誕生、そういったものが重なったせいなのか また少しずつ湧いてくる表現欲。
自分の戯言など世界の誰が読みたいのか、と拗ねた子供時代は終了。
誰が読みたいかではなく 自分が文章を書きたいと思うならそれで十分。
戻ってきたんだ 表現欲。
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