様々な世論飛び交う昨今。

米国在住のギタリストがここで一席。


終戦記念日。数日前。

しかしカリフォルニアの8月15日は何の日でもなく、単なるカレンダーの一日。

こちとら日本人のはしくれ。

長くなりそうなこのテーマについて書いてみる事を決意。

深呼吸。。。






小生は戦争経験者。


。。。。。。。。。。



(えっ? という反応待ちの時間)


正確に言うと

一国が戦争をする、武力介入をする、空爆をすると決めた時、

一般市民そして国全体の雰囲気がどういう状態になるのかという体験。

小生の渡米は1996年。

その年の9月にイラクの空爆。

2001年 9/11 勃発。

その10月にアフガン戦争。

この時はさすがに住んでいたボストンで行われたデモ行進に参加。 

報復は何も解決にはならないと。

その甲斐もなく戦争開始。


2003年 イラク戦争。 

これらだけでなく細かい空爆を含めれば


ほぼ毎年のように戦争をしている国に住んで早20年。


「一国が戦争をする、武力介入をする、空爆をすると決めた時、

一般市民そして国全体の雰囲気がどういう状態になるのか。」


この問いの答えは 「どうにもならない」。



20年間平穏。



「日本は70年間ずっと平和です。」と、よく物事を深く考えない人が言っている「平和」

僕がこの20年間ずっと感じてきた「平穏」(実際に一国としては戦争状態)


この二つは酷似。


アメリカという国の特殊性。ほぼ常に戦勝国であり続けた国なりの余裕。





ここで想像話を一席。



真珠湾が攻撃された時

レイテ島の戦いがあった時

硫黄島の戦いがあった時

原爆が落とされた時




その時カリフォルニアに住んでいた人たちは


「ふーん。」って言いながらコーンフレークでも食べていたのではないかと。


(もちろんここで言う「住んでいた人たち」というのは白人の事。

恐らく日系の移民は大変な目にあっていた筈。)



日系人も周りにいない高級住宅街で


戦争のニュースは新聞でみるだけ。




レイテ島で何人死んだという新聞のニュースよりも



今コーンフレークにかける牛乳がないことの方が


重要な出来事。



多少おおげさかもしれないがアメリカとはこういう国。


個人主義。


「お国のために命をかけている人がいるのに コーンフレークに牛乳がないだけで喚くな!」

と叱るも自由。

「レイテ島? しらねーよ それより牛乳どこだよ?」 と言うのも自由。



(勿論70年前はもう少し自由ではなかったかもしれないが建前上、表現の自由を侵してはならないことはこの国の大原則)


例えば

メジャーリーグの決勝戦

スーパーボール

オリンピック


熱狂的に応援している人が多数いる中で

全く興味のない人も相当数。


あのワールドトレードセンターが崩れ落ちた9月11日に

打ちひしがれていた人が多数

一方で誕生日パーティーをしていた知人。


20年間のアメリカ生活の中で

片方のタイプの人間がもう片方に向かって

「なんでもっとスポーツに興味を持とうとしないんだ! もっと興味持て!」

と強制的な圧力をかけているのを見たことは皆無。



9/11に誕生日パーティーをしていた友人。

せっかく用意した料理 友達も多数予定を合わせて参加。

私のパーティーの時にアルカイダは何て事をしてくれたのかと

あくまで自分のパーティー中心。




日本。



一億総火の玉。 


欲しがりません勝つまでは。


同調圧力。


恐らく特高警察の圧力も今では想像できない程のものだったのではないかとは想像可能。



しかし酒場で不謹慎な事をまくしたてている民間人を

特高に密告した同じ民間人はいなかったのかという疑問。



善意、思いやり、気配り これらが作り出す分厚い空気。


この時はたまたまこの分厚い空気は「鬼畜米英」と名前を変えて

日本列島を席巻。


日本人が先の大戦を思い出す時に実際の戦闘や原爆の他に

思い出されるのは

その列島全体を包み込んだ空気。


いやちょっと待てと。


それは戦争を始めたのは軍部で

爆弾を落としたのはアメリカ。


でも嫌な空気を一致団結して作り出したのは



一般市民だったのではないかと。

もともと苛烈だった状況を 

もっと精神的にギズギズしたものにしたのは 


他ならぬ自分たち一般市民ではなかったのかと。


この日本人が集団で作り出す分厚い空気は

その時々の機運によって名前は変えても

常に存在。


昭和天皇の崩御の時の

自粛という名の分厚い空気。

東日本大震災の時の

絆という名の分厚い空気。


日本が日本である以上この分厚い空気というのは常に存在。


それは基本的には素晴らしい事。


思いやりの心。一体感。 


しかしこの強大な分厚い空気には


要注意。







戦争というのは他の国とのバランス関係。

一国だけの問題だけでもなければ

一つだけの問題で始まるわけでもなく

複雑な流れによってやむなく開始されるもの。



起きる時には起きてしまうもの。




仮に起きてしまった時に


戦時中なんだから常に戦果に注目しなくてはならないとか

不謹慎な事を発言してはならないとか

そういった分厚い空気を作らないことが大切。


空気を読まない輩がいてもいい そういう人はそう言う人。

日本軍を声高に応援する人も多数存在。

批判する人も多数存在。

全く興味もない人も相当数存在。


それで良いのではないかと。




なぜこういうことを言うかと言うと




色々な議論を見聞きする中で

まるで自分が鉄砲をもって戦いに行くのか、あるいは自分が軍部の司令官にでもなるのかと

いうような物言いをする人を散見。


我々は一般市民。


我々一般市民が

本当に戦争が起こった時に実際に何をすべきなのかということについて

語っている人はほぼ皆無。



我々一般市民が本当にできる事というのは

ほんのごく僅か。

その一つが

社会の空気を必要以上に息苦しいものにしない事ではないかと。


勿論命をかけている兵隊さんに対する

意図的な冒涜や侮辱はタブー。

しかしそれにしたって人それぞれの敬意の表し方で良い筈。


それ以外は自由に発言したり

戦争自体に興味をもたないという選択肢も込み。




戦争は戦場で行われるべきで


兵隊が戻ってくるべき土地は常に「平穏」でにこやかであってしかるべき。 

それがお互い一般市民の為、傷ついて帰ってきた兵士の為 やがて来る平和の為。


一般市民が戦争を背負いこんでしまったって

誰も得をしない筈。





アメリカが全てに於いて見本になる国かどうかは不明




ただ、


社会がある一定方向に動こうとしている時に


それに乗れない人も、乗りたくない人も存在。


それは放置できる社会。


強制的に乗せようとせず、


放置し、それはそれとして認められる社会。



それを作っていくことが大事なのではないかという考察。


長文 読了 感謝。


追記


因みにこの文章書き直しを数度試みるもまだ未完成。

文章として何が結論なのか 文章の帰結点 論の道順

全てにおいて脆弱。


ただこれ以上こねくり回したところで時間の浪費。

とりあえずの投稿。 将来加筆修正の可能性大いにあり。