一番近くにいる他人。

理解しあえる可能性がほぼゼロの関係。

しかし

元々理解できる相手なんて求めてはいない。

今だれかと理解し合えてると感じているのであればそれは一時の幻想。

突き詰めれば突き詰める程理解しあえないものが出てくる。

大切なのは理解ではなく共存。 そこに存在している事。 共に生きている事。

それは小学校の昇降口にあった大きなケヤキの木の様なもの。

そこにいつもあった。 

入学した時も、運動会の時も、水泳大会の時も。

緑の葉っぱを付ける時、落葉の時、すっかり枯れ木の様になる時、芽吹く時。

ただ単にそこにあったケヤキの木。

「愛」ってそんなもんじゃないかと思う。

人が他人に何らかの影響を与えたり、助けたり出来るというのは大きな思い上がり。

大きな喜びを与える時もあるかもしれない、

しかしそれを忘れさせるほどの苦しみを与える事だってある。 


「愛」って何かをする事ではない。 何かの行動をする事ではない。 

「愛」ってそこにいる事だ。


思い出がつもれば積もるほど良い思い出と悪い思い出が積み重なり、

それは飽和状態になる。 プラスとマイナスが綱引きをして 

なにもなかった事と同じ状態になる。

ただそこに立っているケヤキの木の様に なにもしていない存在になる。


でも僕はその小学校の時、そのケヤキに愛されていたと思う。

なにも世界を救う様な愛ではない。 人の命を救う様な愛ではない。

何気ない愛。

おはようという時に友人の後ろにみえるケヤキ、 

放課後に夕焼けが枝の間から滲む様に見えたケヤキ。


人間なんて結局そんなもんだ。 それ以上でもそれ以下でもない。


おごる事なく 卑下する事なく

ただひたすらそこに存在する。

それだけで「愛」なんだと

僕は言いたい。